供養の散骨

30年間続いた平成の時代も今年でいよいよ終わり、新しい時代への幕開けが迫っており、今年は激動の年となります。

1つの時代が終わるということは、次々と新しい波が起こり、古い物を消し去ってしまうので、新しい波に乗れなかった人達は消し去られてしまう運命にあり、新しい物を受け入れる柔軟性のある対応が求められます。

新しい波が起こると共に消し去られる物の中には、私達の先祖から大切に受け継がれてきたものも含まれ、例えば葬祭にしても亡き人をあの世に送り届けるという大切な役目があるにも関わらず、自分達の都合で簡略化が進み、形だけのものになり、その形さえも消し去られようとしているのです。

私はNPO法人の理事長と高野山真言宗の僧侶を兼務していますが、NPOからの訴えかけだけでは届かないことを痛感し、僧侶として散骨が供養である事、そして供養というものは散骨が済んだら終わりではないことを更に訴えかけて参ります。

亡き人は私達のすぐ傍に居るのです。お墓があるのは、亡き人に会いに行くからなのです。目に見えない物を消し去ってはいけません。たとえ時代が移り変わっても、変わらないものは変わらないのです。